【ウルルアートギャラリー】 アボリジニアート、オリジナルグッズの制作・企画・販売
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アボリジニの歴史
アボリジニの昔話
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【 Uluru について 】

メモ

今から9億年ほど前、ウルルの地層は海中にあり地層が変化し始めたのは約4千万年前といわれている。その後地殻変動と風雨の浸食により徐々に現在の形になっていった。つい最近まで“Ayers Rock(エアーズロック)”と呼ばれていたが、これは1873年に発見された当時の南オーストラリア州首相Sir Henry Ayersにちなんで、名付けられた。1958年、オーストラリア政府はUluru周辺地域を国立公園に指定したが、アボリジニからの強い抗議を受け、現在はもとの所有者であるAnang(アナヌー)の手に戻った。政府は観光地として使用するかわりに年間約1500万円と観光客からの収入の一部を彼らに支払っている。

オーストラリア政府観光局


オーストラリア大使館






 オーストラリアの先住民(Indigenous People)には、大きくわけてふたつの民族が存在しており、ひとつは、クイーンズランド州北部のトレス海峡諸島民に住む「アイランダー」と、もうひとつは、オーストラリア大陸に住む「アボリジニ」です。
 「アボリジニ」の語源は、ラテン語の「原初からの(ab・origine)」に由来し、そもそもは「原住民」を意味していた言葉が、そのまま固有名詞になったもの、と考えられています。

 アボリジニは、今から5〜6万年前(15万年前という説もある)に東南アジア方面から南下し、島づたいに渡ってきたとされる説が一般的ですが、まだよくわかっていないと言われています。それ以外でも、アボリジニの骨格から、南インド説やアフリカ説、どの民族にもつながっていない独自の民族であるといった説など、様々な学説が存在しています。
 ヨーロッパ人の入植以前は、大陸全土で30万人、700以上の部族にわかれ、言語も250を越えていたといわれています。地域によって全く異なる言語・食文化・生活習慣を持ち、現在でも25種類程(方言を含めると100)の言語が存在しています。



 “ドリーミング”によって太古からの知恵を受け継ぎ、ソングライン(歌によって伝えられる地図)によって大陸内を移動していたアボリジニ。狩猟採集民として大地の精霊と共に暮らしてきたアボリジニに、悲劇の歴史が訪れたのは1770年代。キャプテン・クックによる東岸部の領有宣言に基づき、1788年1月26日、初代総督アーサー・フィリップ率いる海兵隊らが流刑者と共に上陸。
 入植者たちは、狩猟採集民として移動しながら生活していたアボリジニを、『非定住者』と見做し、オーストラリア大陸は、テラ・ヌリウス(teera nullius)、即ち『持ち主のいない土地』であると主張した。自分たちの土地占拠を合法化する一方、アボリジニを不法占拠者として迫害、虐殺していった。こうして東南部では1840年代に、タスマニアでは1876年に純血のアボリジニが絶滅し、オーストラリ全土に約30万人いたとされる人口は、1901年の統計では66950人にまで激減したと言われている。
 さらに、アボリジニの子供たちを寄宿舎に収容したり、親から引き離して白人家庭の養子にしたりする『同化政策』がとられた。この政策は、19世紀末から1960年代まで続き、延べ10万人といわれるアボリジニが、民族的アイデンティティを失い、いわゆる『ストールン・ジェネレーション(盗まれた世代)』として、都市部に暮らす最下層民となったのである。


 一方、アリス・スプリングスのある中央砂漠地帯やダーウィン東部の熱帯地方のアーネムランドでは、その環境の厳しさから、白人たちの入植が東南部よりも大幅に遅れたことにより、保護運動と共に、後にコミュニティの中核となるキリスト教団体によるミッション(布教区)や連邦政府のセツルメント(生活救済地区)が作られ、定住化と保護隔離政策が取られていく。
 こういった同化と隔離というアボリジニ政策の流れが変わるのは、1960年代後半のことである。少数民族・先住民族の自立を求める社会運動が活発化し、1967年の国民投票でアボリジニは市民権を獲得。その後、先住民族の土地所有権を認める運動がおこり、ノーザン・テリトリーでは1976年にアボリジニの土地が認められ、少しずつ彼らに返還されるようになる(連邦政府としての先住権認定は、1992年の『マボ判決』、1996年の『ウィック判決』)。
 こうして、自らの土地であるカントリーに住み、伝統的な生活や文化を継承しているアボリジニと、白人化政策によって自らのアイデンティティを喪失したアーバン・アボリジニという、2つの社会集団が誕生することになる。こういった背景を受け、アボリジナルアートもいくつかの流れが出来ている。



 アボリジナルアートに注目が集まるようになったのは、この30年足らずのことである。その発端は、1971年にアリス・スプリングスの北西約280Kmにあるパプニヤという町に赴任してきたジェフリー・バードンという美術教師によるものである。この町の小学校に赴任してきた彼は、アボリジニが儀礼として描いていた砂絵に興味を持ち、アボリジニに壁画を描かせようとする。
 このとき、アボリジニは学校の壁にオーカー(岩絵の具)を使って聖地にまつわる『ミツアリのドリーミング』の壁画を描いたのである。その後、アボリジニはアクリル絵の具を使い様々な素材に描いていくが、最終的にはキャンバスに描くようになる。こられは“ドットペインティング(点描画)”と呼ばれ、一見すると現代美術の抽象画のようだが、ドリーミングを描いたもので、二重丸は水場、蛇行した線は川といったように、それぞれの模様は重要な意味があり、解読可能な儀礼的メッセージを表現したものであった。



 アボリジニの作品をアリス・スプリングスのツーリスト市場で販売したところ、大きな反響が巻き起こり、これによって、パプニヤのアーティストたちに貴重な現金収入をもたらすことになったのと同時に、その芸術性が高く評価され、芸術賞を受賞する作品も現れてきた。こういったムーブメントは急速に周囲のコミュニティにも波及し、中央砂漠のアボリジニアート=アクリルペイントの“ドットペインティング”というスタイルが定着していくことになった。
 また、1940年代から少しずつ注目されてきたアボリジナルアートに、アーネムランドの樹皮画があった。ユーカリの木の皮を薄く剥ぎ乾燥させてキャンバスとして使ったものだが、もともとは樹皮で作られた小屋に絵を描いていたことから、このような呼名になったとも言われている。そのモチーフは、ロック・アートやボディ・ペインティングなどの伝統的なスタイルを踏襲したもので、例えば、西部アーネムランドの樹皮画は精霊である動物の骨格や内臓を描いた“レントゲン画法”と言われる、ロック・アートのデザインを継承している。



 また、北東部の樹皮画では幾何学的な文様や網状のパターンが並ぶ“クロス・ハッチング画法”が特徴で、伝統的なアボリジニのドリーミングのメッセージを描いたものである。以前は、民族資料として博物館に飾られていた樹皮画も50年代からは美術館で展示されるようになり、70年代のペインティング・ムーブメントとともに作家性を獲得し、アートとして評価されるようになった。
 このように現代のアボリジナルアートはいずれも70年代以降に注目されてきたもので、彼らの経済的自立を支える産業としての側面が基本にあった。そのため、商業主義によって画風が変化してきたのも事実である。“ドット・ペインティング”は、地味なアースカラーから色鮮やかな色使いに変わり、ドットも全体に描かれるといったようにアート性が高まっている。しかしあくまでもその作品のモチーフは、そのアーティスト固有の儀礼に関わる伝統のデザインであり、祖先の土地や精神性との深い繋がりを表現していることに何ら変わりはない。



 その一方で、自らの文化伝統を失い都市部に暮らす混血が進んだアーバン・アボリジニの中から生まれてきたアボリジナルアートがある。こちらは、伝統的なアボリジニ絵画の形式を後から学習した人々で、伝統的なデザインや素材・色を模倣して制作するか、あるいは全くアボリジニ的な手法を取らず自らがおかれたアイデンティティの喪失感を自由な素材と表現によって制作している。“アボリジナリティ”というアイデンティティを模索しながらも、個人的なスタイルを目指す「現代美術」のアーティストたちである。